ムーミン谷のひみつ
ムーミンシリーズから特徴的なエピソードを選び出し、
ムーミンシリーズから特徴的なエピソードを選び出し、
以下、フランスの媒体に掲載された内田樹氏の文章です。
タイトルは「3/11以降の日本のメディアについて」。
なるほど、だからTVも雑誌もぜんぜん面白くないのか・な・・
『2011年3月11日の東日本大震災と、それに続いた東電の福島第一原発事故は私たちの国の中枢的な社会システムが想像以上に劣化していることを国民の前にあきらかにした。日本のシステムが決して世界一流のものではないことを人々は知らないわけではなかったが、まさかこれほどまでに劣悪なものだとは思っていなかった。そのことに国民は驚き、それから後、長く深い抑鬱状態のうちに落ち込んでいる。
政府の危機管理体制がほとんど機能していなかったこと、原子力工学の専門家たちが「根拠なき楽観主義」に安住して、自然災害のもたらすリスクを過小評価していたことが災害の拡大をもたらした。それと同時に、私たちはメディアがそれに負託された機能を十分に果たしてこなかったし、いまも果たしていないことを知らされた。それが私たちの気鬱のあるいは最大の理由であるかも知れない。
メディアは官邸や東電やいわゆる「原子力ムラ」の過失をきびしく咎め立てているが、メディア自身の瑕疵については何も語らない。だから、私たちは政治家や官僚やビジネスマンの機能不全についてはいくらでも語れるのに、メディアについて語ろうとすると言葉に詰まる。というのは、ある社会事象を語るための基礎的な語彙や、価値判断の枠組みそのものを提供するのがメディアだからである。メディアの劣化について語る語彙や価値判断基準をメディア自身は提供しない。「メディアの劣化について語る語彙や価値判断基準を提供することができない」という不能が現在のメディアの劣化の本質なのだと私は思う。
メディアはいわば私たちの社会の「自己意識」であり、「私小説」である。
そこで語られる言葉が深く、厚みがあり、手触りが複雑で、響きのよいものならば、また、できごとの意味や価値を考量するときの判断基準がひろびろとして風通しがよく、多様な解釈に開かれたものであるならば、私たちの知性は賦活され、感情は豊かになるだろう。だが、いまマスメディアから、ネットメディアに至るまで、メディアの繰り出す語彙は貧しく、提示される分析は単純で浅く、支配的な感情は「敵」に対する怒りと痙攣的な笑いと定型的な哀しみの三種類(あるいはその混淆態)に限定されている。
メディアが社会そのものの「自己意識」や「私小説」であるなら、それが単純なものであってよいはずがない。「私は・・・な人間である。世界は・・・のように成り立ってる(以上、終わり)」というような単純で一意的な理解の上に生身の人間は生きられない。そのような単純なスキームを現実にあてはめた人は、死活的に重要な情報-想定外で、ラディカルな社会構造の変化についての情報-をシステマティックに見落とすことになるからだ。
生き延びるためには複雑な生体でなければならない。変化に応じられるためには、生物そのものが「ゆらぎ」を含んだかたちで構造化されていなければならない。ひとつのかたちに固まらず、たえず「ゆらいでいること」、それが生物の本態である。私たちのうちには、気高さと卑しさ、寛容と狭量、熟慮と軽率が絡み合い、入り交じっている。私たちはそのような複雑な構造物としてのおのれを受け容れ、それらの要素を折り合わせ、共生をはかろうと努めている。そのようにして、たくみに「ゆらいでいる」人のことを私たちは伝統的に「成熟した大人」とみなしてきた。社会制度もその点では生物と変わらない。変化に応じられるためには複雑な構成を保っていなければならない。だから、メディアの成熟度にも私は人間と同じ基準をあてはめて考えている。その基準に照らすならば、日本のメディアの成熟度は低い。
全国紙は「立派なこと」「政治的に正しいこと」「誰からも文句をつけられそうもないこと」だけを選択的に報道し、テレビと週刊誌はもっぱら「どうでもいいこと」「言わない方がいいこと」「人を怒らせ、不快にさせること」を選択的に報道している。メディアの仕事が「分業」されているのだ。それがメディアの劣化を招いているのだが、そのことにメディアの送り手たちは気づいていない。
ジキル博士とハイド氏の没落の理由は、知性と獣性、欲望の抑制と解放をひとりの人間が引き受けるという困難な人間的課題を忌避して、知性と獣性に人格分裂することで内的葛藤を解決しようとしたことにある。彼が罰を受けるのは、両立しがたいものを両立させようという人間的義務を拒んだからである。
その困難な義務を引き受けることによってしか人間は人間的になることはできない。面倒な仕事だが、その面倒な仕事を忌避したものは「人格解離」という病態に誘い込まれる。私たちの国のメディアで起きているのは、まさにそれである。メディアが人格解離しているのである。解離したそれぞれの人格は純化し、奇形化し、自然界ではありえないような異様な形状と不必要な機能を備得始めている。
メディアは「ゆらいだ」ものであるために、「デタッチメント」と「コミットメント」を同時的に果たすことを求められる。
「デタッチメント」というのは、どれほど心乱れる出来事であっても、そこから一定の距離をとり、冷静で、科学者的なまなざしで、それが何であるのか、なぜ起きたのか、どう対処すればよいのかについて徹底的に知性的に語る構えのことである。
「コミットメント」はその逆である。出来事に心乱され、距離感を見失い、他者の苦しみや悲しみや喜びや怒りに共感し、当事者として困惑し、うろたえ、絶望し、すがるように希望を語る構えのことである。
この二つの作業を同時的に果たしうる主体だけが、混沌としたこの世界の成り立ちを(多少とでも)明晰な語法で明らかにし、そこでの人間たちのふるまい方について(多少とでも)倫理的な指示を示すことができる。
メディアは「デタッチ」しながら、かつ「コミット」するという複雑な仕事を引き受けることではじめてその社会的機能を果たし得る。だが、現実に日本のメディアで起きているのは、「デタッチメント」と「コミットメント」への分業である。ある媒体はひたすら「デタッチメント」的であり、ある媒体はひたすら「コミットメント的」である。同一媒体の中でもある記事や番組は「デタッチメント」的であり、別の記事や番組は「コミットメント」的である。
「生の出来事」に対して、「デタッチメント」報道は過剰に非関与的にふるまうことで、「コミットメント」報道は過剰に関与的にふるまうことで、いずれも、出来事を適切に観察し、分析し、対処を論ずる道すじを自分で塞いでしまっている。
私たちの国のメディアの病態は人格解離的である。それがメディアの成熟を妨げており、想定外の事態への適切に対応する力を毀損している。
だから、いまメディアに必要なものは、あえて抽象的な言葉を借りて言えば「生身」(la chair)なのだと思う。
同語反復と知りつつ言うが、メディアが生き返るためには、それがもう一度「生き物」になる他ない。』
最近読んだ新書の感想です。
まずは「キュレーションの時代」のほう。
マスの時代は終わってビオトープ(生息空間)の時代だ、
なんていうのはもうずいぶん前から言われ続けているけれど、
この本の良いところは、やたらと具体的なところかも。
取り上げられているマニアな事例には、つい興味を惹かれてしまう。
ヨアキムだのジスモンチだの、彼女が消えた浜辺だの・・・。
あとは、(私の苦手な)マス志向な輩に対して、辛辣な切り方をしているということ。
だからかな、読後はなんとなく元気になります。
続いて「希望難民ご一行様」。
社会学の若き論客と呼ばれている筆者の(簡単に言うと)若者論。
でも、年配者が高みの見物で若者を分析するのとは違って、真実味がある。
やっぱりな〜、ですよね〜と思えます。
巡り巡ってたどり着く「若者に夢をあきらめさせろ」という主張が
ちょっと哀しく、でも、エールのようにも聞こえるのは、
筆者もやっぱり若者だからでしょうか。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
長崎生まれ英国育ちの作家カズオ・イシグロの小説。
それぞれウィットブレッド賞、ブッカー賞を受賞しています。
一人称の独白形式で過去と現在への自己認識を語る・・・
時代の空気を感じながら興味深く読み続けると、ふいに違和感。
ん?
そのまま虜になって読み進めるうちに、
その違和感がどこからくるものかが次第に明かされていきます。
『日の名残り』は大戦前後のヨーロッパ諸国とナチスの密会を見守った忠実な執事の独白、
『浮世の画家』は第二次世界大戦前後に士気を高める絵画を描いた画家の独白です。
元々は英語で書かれた小説で、土屋政雄氏の翻訳ものです。
貫いた信念と価値観のはざま・・・真実はどこにも辿り着かない。
なぜか最後に涙が出ます。
かなりおもしろい。
ぜひお試しあれ!
お仕事で美容師さんが主人公の物語を書かせていただきました。
我ながら、感動もん
発売前なので詳細は書けませんが、
私自身の「祈り」のようなものが込められているかも。
こんな風になったらみんなが幸せなのになあ・・・と。
最近、そういうピュアなものの力をひしひしと感じでおります
仕事の関係で「経済小説」なるものばかりを読んでいたので、
急にノスタルジックな小説が読みたくなった。
で、トルーマン・カポーティ著、村上春樹訳の
『ティファニーで朝食を』手に取る。
映画は何度も見たけれど、原作は初。
これ、まったく違うお話でした。
村上春樹の解説に・・・
作家は「イノセント」をいつまでも描き続けることはできない。
だからカポーティは最終的に「冷血」を書いた。
というような内容のこと(ザックリです)が記されていたけれども、
女性作家の場合はそうでもない気がする。
男性作家は若い時分「イノセント」→「社会派」というパターンが多いが、
女性作家はずっと「イノセント」のままの人も多い。
どうしてだろうね。
おじさんが「イノセント」だとキモいから?
それとも、男性作家、女性作家という身分が
そういう社会的役割を担っているのだろうか。
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
最近のコメント